遠石八幡宮の始まり
昔々、にわかに暗雲が垂れ込み、人々が空を見上げると、その中から一筋の光が差し込むや神馬(しんめ)が飛来し、磯辺(いそべ)に忽然と現れた大きな石の上に降り立ちました。
そして「吾(われ)は宇佐八幡大神(うさはちまんおおかみ)なり。
この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕る。ああ遠し。」と告げられました。
よって人々は、この地に八幡様をおまつりし、やがてこの地は「とおいし、といし」と呼ばれるようになりました。
そして今から約千三百年前に、神社が創建されました。
御由緒
推古天皇30年(622)の春、「この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕わる」との宇佐八幡大神のお告げによりご神霊を奉安し、和銅元年(708)この地に社殿を造営したのを創建とします。
平安時代には京都の石清水八幡宮別宮となり、 本朝四所八幡の一つとも称されました。
江戸時代には毛利徳山歴代藩主の崇敬篤く、祭礼には諸国からも多くの参詣を集め門前は賑わいました。
その後も周防国の大社として信仰は広がり、明治時代の社格では県社となり、現在も八幡大神のご神徳を仰ぐ人たちの参詣が絶えません。
御祭神
遠石八幡宮では、応神天皇を主神とし、神功皇后、三女神をお祭りしています。
そのご神徳は、厄除開運・家内安全・交通安全・事業発展・必勝・安産など
広大無辺であると称えられています
応神天皇
応神天皇(おうじんてんのう)
(誉田別尊(ほんだわけのみこと))
応神天皇は、父 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)ご崩御の後、生まれながらにして第十五代天皇となられ、その腕が弓を射るときにつける「鞆(ほむた)」のようにたくましいことから、「誉田別尊(ほんだわけのみこと)」と称されました。
大陸の文化・技術を取り入れ新しい国づくりをすすめられ、武徳の霊験はもとより、文教の祖神、興業の守護神として崇められる八幡大神の主神であります。
神功皇后
神功皇后(じんぐうこうごう)
(息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと))
神功皇后は、応神天皇の母君としてご内助の功多く、懐胎の御身にあって戦を征されるなど、安産を始め母子の守護神としても崇められています。
三女神
三女神(さんじょしん)
・田心姫命(たごりひめのみこと)
・多伎津姫命(たぎつひめのみこと)
・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
三女神は、天照大御神がお降しになった宗像(むなかた)の神で、 別名「道主貴(みちぬしのむち)」とも呼ばれ
「道」の守護神として交通の安全や武芸の道に霊験ありと崇められています。
文化財
遠石八幡宮の「本殿」「幣殿」「拝殿」「祭器庫」「神饌所」「透塀」「神門および袖塀」「手水舎」の8件が、国の文化審議会の答申により2013年12月24日に登録有形文化財に登録されました。
洪鐘
源平の戦と洪鐘(周南市文化財)
銘文には、源平の戦で流れ矢が鐘に当たり音が悪くなり、正和5年(1316)に新たに一鐘鋳造したが、音色が思わしくないので、元応2年(1320)二口合わせて一鐘を鋳造し直したとあります。
鎌倉時代前期の特徴を表した美しい鐘で、周南市の文化財に指定されてます。
影向石
社伝に、往古宇佐八幡より神馬にて飛来され磯辺に現れた大石に降り立たれた際のお告げに、「あゝ遠し」とあり、遠くよりこの石に飛来されたことに由来するとされています。 この石は神社の西方の飛び地にあり、影向石(えいこういわ)として地元に人に崇拝されています。また、沖に大石があったからという説や、十名石があったからという説もあります。





